第33回一夜城まつり

【お知らせ】
10月15日(日)の一夜城まつりは天候不良のため中止となりました。

 園内には、豊臣秀吉が小田原攻めの際、一夜にして築いたと伝わる石垣跡が残る。特設舞台で、和太鼓演奏、甲冑仕舞「北條」、甲冑武者対決、戦国浪漫の競演披露。会場内では、天下人野だてや、合戦鍋の販売なども。午前10時~午後3時。箱根板橋駅と早川駅からシャトルバス運行(200円、小学生100円)。
 

9月30日(土)~12月10日(日)の土・日・祝日運行
シーズン中500円で乗り放題!!
お問い合わせ:(同)まち元気小田原 TEL:0465-44-4656

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石垣山一夜城、その名の由来

豊臣秀吉が築城に当たり、山頂の林の中に堀や櫓の骨組みを造り、白紙を貼って白壁のように見せかけ、完成すると周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城の将兵が一夜のうちに城が出現したと思ったという伝承から石垣山一夜城と呼ばれます。
 秀吉はこの城に淀殿ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。
 この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、野面積といい、長期戦に備えた本格的な城造りであったと言えます。

 豊臣秀吉は、天正13年(1585)に関白に任官し、その年、四国攻め、翌々15年には九州攻めを行って、西国をほぼ平定した。残りは関東・東北である。
 そこで同年暮れ、秀吉は、「関東・奥両国惣無事令[そうぶじれい]」を出し、関東と奥両国(陸奥国・出羽国)において、「以後、大名同士の領土の取り合いなどがあれば、関白として征伐する」と命令した。 そして、翌年(1588)4月、秀吉は後陽成[ごようぜい])天皇を自分の城である聚楽第[じゅらくてい]に招き、全国の諸大名にも列席を命じた。このとき、上洛したかどうかが、秀吉への臣従の踏み絵となったが、北條氏政・氏直父子は列席しなかった。ここで、秀吉のターゲットが後北條氏に絞られたのである。
 そうこうするうちに、天正17年(1589)10月、秀吉に小田原攻めの口実を与える事件が勃発した。上野国(群馬県)の沼田城代をつとめていた猪俣邦憲[いのまたくにのり]が、近くの名胡桃城[なくるみじょう]を奪ってしまったのである。秀吉は、これを「関東・奥両国惣無事令」違反としてとらえ、ついに11月24日付で宣戦布告状をしたためている。
 後北條氏側では、早くからこの日が来ることを想定し、小田原城やその他支城の修築などを行っていた。小田原城の、城と城下町を全部包みこんだ総構(惣構)[そうがまえ]ができたのもこのころである。 氏政・氏直はおよそ5万4千の兵を動員した。しかし、秀吉の動員兵力はそれをはるかに上まわり、21万ないし22万といわれる大軍だった。
 秀吉は、小田原全体を見下ろせる笠懸山[かさがけやま]に対の城として一つの城を築かせ、そこを本陣とした。これがいわゆる石垣山一夜城である。
 小田原城包囲の戦いは天正18年(1590)4月3日から始まり、結局、7月5日、氏直は開城して降伏し、戦国大名後北條氏は滅亡した。


(諸説あります)

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